知人に薦められて、次の本を読んでみました。
山村明義『神道と日本人』(新潮社、2011年)
著者は、ジャーナリスト・作家であり、本書のために、200人以上の神職に取材したそうです。本書を自ら次のように紹介します。
「神社に奉職する神職者側から見た「日本人論」について、多くの関係者の話や文献を探り、かなり内部に入って試みた、現代的な「ノンフィクション作品」である。」
本書は、10章からなり、内容が多岐にわたり、中身も濃い。取材した約50名の神職に関するエピソードが興味深く、文章もとても読みやすいので、つい引き込まれてしまいます。
以下に特に印象に残った事項を2~3採り上げてみます。
人が怒ったとき、あるいは戦うときの魂が「荒魂」、他方、普段の柔和な生活を送っているときの魂が「和魂」と呼ばれる。「荒魂」を呼び出すことを「振る魂」といい、「和魂」に戻すことを「魂鎮め」といい、双方を合わせて「鎮魂」という。
日本人はもともと「荒魂」から「和魂」に戻るバランスに優れている。 武道では、試合が終わった後、荒魂と和魂を入れ替えて、協和状態に戻る。これ(鎮魂)ができずにガッツポーズをするのは見苦しいとされる。
伊勢神宮は、堅剛な石材ではなく、木と萱で造られている。本来は真っ先に朽ちるべき、はかないものに見えるが、本当は滅びるものであるが故に、日本人は新しいものをつくり続けるという「永遠のシステム」を手に入れた、ということができる。 伊勢神宮は、いまにも朽ち果てるように映る「いま」をあくまでも大事にし、「はかないものこそが本当は永遠に続いてゆくものだ」という自然界の真実を証明している
宮中祭祀のうち、祈年祭は年穀豊穣の「祈り」の御祭であり、神嘗祭は新穀をお供えする神恩への「感謝」のための御祭であり、新嘗祭は天皇陛下が感謝された後、お供えしたものを自らも召し上がる「神人共食」をする「蘇り」の御祭である。 自然を神として祭っていたかつての日本人たちは、稲などの種植と収穫という年中行事の中で、「祈り-感謝-蘇り」という「まつりごと」の循環を、永遠に繰り返してきた。 この「祈り」と「感謝」、そして「蘇り」という日本の「まつりごと」の繰り返しのパターンは、日本人が成功するための究極の「奥義」だった。 |
著者は、「日本の神道とは、現代の生活に役に立つ汎用性のある教えであり、世界にも立派に通用する日本人の心のあり方である。」と繰り返し主張します。 |