先に、長浜浩明『古代日本「謎」の時代を解き明かす』について記事を書きました(記事はこちらから)。
本書の中で、神武東征や「大阪平野の発達史」について、著者が主張するところを記しました。
今回は、引き続いて、以下に、邪馬台国(邪馬壱国)について、著者が主張するところを記してみます。
魏志倭人伝は「男子は大小となく皆黥面文身す」と記し、後漢書倭伝は「男子は皆黥面文身す、その文の左右大小を以って尊卑の差を別つ」と記している。つまり、当時の「倭人」の男子は、みんな黥面文身していた。
魏志倭人伝の記す倭人の国々は、半島南部から対馬、壱岐、北部九州を含む地域の国々である。日本全体ではない。『旧唐書』には「日本国は倭国の別種なり」、「日本は旧小国倭国の地を併す」と記載されている。
2~4世紀、日本には黥面文身の習俗を持つ地域と持たない地域とがあり、この習俗を持つ国々がシナと通じていた。後漢書倭人伝や魏志倭人伝の記載がこのことを示す。北部九州には黥面文身の習俗があったが、機内にはその習俗がなかった。
魏志倭人伝は、狗邪韓国から対馬までの約70キロを千里としているので、1里=約70メートルとなる。「水行」、「陸行」は、川の流れ、道路事情、輿などの当時の実情やシナ人の習慣を考慮する。そうして、魏志倭人伝を素直に読むと、邪馬壱国は、佐賀県の筑後川下流域周辺ということになる。
「邪馬台国畿内説」は成立しえない。当時、畿内には黥面文身の習俗がなかったので、魏志倭人伝の「男子は大小となく皆黥面文身す」という記載と矛盾する。
なお、卑弥呼の時代、「女王国の東」ヤマトの一角に拠点を築いた大和朝廷は、侮れない勢力として、台頭していた。 |